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筑波大大会第11-20回

第11回大会 1988年12月18日 「入四間」 主管学年12期(86年入学)

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 当初は第13回大会テレイン「岩瀬燕山」で内定して、渉外も行われていたところを、遠くても良いテレインを、という熱意から急遽変更され、初めての県北での開催となった。交通が不便で、もし雪が降ったら大会延期になるというものであった。男子Eクラスのコースをループさせなくとも組めるほどの面積がり、良質なテレインであったが、大学のインカレセレクションのためEクラスに出た他大学生が未帰還となり捜索隊も出た。また、コンピュータの導入が初めて一応の成功をおさめた。

第12回大会 1989年10月29日 「熊ノ木」 主管学年13期(87年入学)

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 初めてのリメイクマップでの大会である。「喜佐見」か日立市かの議論の末、自分たちに納得のいくことをやりたいということで決まった。リメイクとはいうものの、やはりスーパーAの地図調査は困難を極め、一次調査3日目でさえ道のズレ・境界のズレを言い出す者が続出したという。大会では、クラスによってスタートを3箇所に設けた。また、Eクラスでは大学のインカレセレクションに使用されたため申し込みが殺到し、苦肉の45秒間隔スタートが実行された。

第13回大会 1990年10月21日 「岩瀬燕山」 主管学年14期(88年入学)

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 大会運営に無理をしないことを前提に準備が行われ、当初から茨城県央に絞ったテレイン探しが行われた。筑波大大会初の片斜面テレインで、基礎調査の地図調査担当域が麓から主尾根までにおよび、調査範囲内にコンタ80本、一次調査ではコンタ50本を課せられた者までいた。
 このころは各大学がEクラスを利用してインカレ代表選手のセレクションを行う風潮にあり、関東の主な大学大会のEクラスでは、これによる弊害がかなり問題視されてきた。そこで、この大会ではEクラスの人数制限と出場希望者の実績に基づく選考制度が創設された。そして、21Aクラスの年齢制限を撤廃し、インカレセレクションは21Aクラスを利用して行われることを可能とした。また、地元への感謝の意として町民クラスを創設、参加費を100円とした。これは大いに歓迎され150名もの町民が参加した。

第14回大会 1991年12月15日 「十国峠」 主管学年15期(89年入学)

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 当初は笠間市内での開催で渉外を進めていたが、その候補地で翌年に公認東日本大会が予定されていることがわかり断念。改めてテレイン探しに奔走した結果、2回目の県北開催で落ち着いた。ところが、休猟区の解除直後であったことが判明し、ハンター対策に万全を期すため、150枚の立て看板が学園都市のまちから「回収・再利用」され、テレイン内にOL大会の開催と猟の自粛をお願いする立て看板が1ヶ月以上前から設置された。
 インカレセレクション対応としては、セレクションクラスを通常のクラスから独立して創設された。また、「サイン計画」として案内看板にピクトグラムの絵を導入する試みも見られたが、その後の大会に継承されることはなかった。
 この大会では、体サ館にコントロールカードを置き忘れるという事件が発生し、当日朝、体サ館の鍵が開けられるのを待って、コントロールカードが常陸太田市の大会会場に届けられたが、トップスタートには間に合わず、スタート時刻が早い参加者には、コピー用紙による急場作りのチェックカードが配られた。

第15回大会 1992年12月20日 「赤根林道」 主管学年16期(90年入学)

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 「入四間」の東隣に位置するためテレインは良質である。ただし、「入四間」同様、交通条件に負担がかかり、日立市の中心市街地にある小学校を会場とし、会場−テレイン間をバス輸送とした。大会当日には未帰還者が出て、テレイン内で役員をしていた競技パートの上級生を中心に急ごしらえの捜索隊を編成、日没になっても発見されず、警察・消防に通報するまでとなった。橘先生の捜索指揮と現場の上級生の活躍で未帰還者は発見され事なきを得た。これ以降、猟期との兼ね合いもあり、大会は10月開催が固定的となった。

第16回大会 1993年10月17日 「鞍石」 主管学年17期(91年入学)

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 県央に戻ってきた大会。JRなど交通の便も悪くなく、猟期を避けて10月開催となった。大会史上初めて雨が降った。比較的アップが少ないテレインであるが、県央テレインよろしくグリーンであり、草刈りによる道の確保、会場からスタート・ゴールまでの距離、またテレイン中央のゴルフ場を巻くようにコースを組むなどの制約もあり、Nクラスの参加者などには苦労であったと思われる。運営その他に関しては、無難に成功を収めた。N・G・市民クラスにおいて恐らく初めて印刷のコーティング地図が使用された大会であり、地域への普及活動を行う筑波大学の特色が出ている。

第17回大会 1994年10月30日 「棚倉街道」 主管学年18期(92年入学)

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 第12回大会「熊ノ木」以来のリメイクマップでの大会。新規テレインの枯渇から各大学大会でもリメイクが多く見られるようになっている。茨城県内最高級のスーパーAは、やはり参加者からの評価を得られた。第11回大会同様に、テレイン南西端の中里小学校を会場に、日立駅からバス輸送が展開された。当日は順調であったこの大会も、駐車場確保など事前の苦労も多かったようだ。
 この年の3月に寄金先生が筑波大学を定年退官なさったため、OB会の発意で先生に感謝の意を込めて、男女エリートの優勝者に「寄金杯」と名付けたカップを送ることが実現した。

第18回大会 1995年10月29日 「吾国山」 主管学年19期(93年入学)

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 第9回大会「稲田三山」を含み西側に範囲を移動したテレインで行われた。会場は「稲田三山」と同じく稲田小学校であった。植生は「稲田三山」に比して良く、コースセットでの工夫もあって新鮮味があり、「稲田三山」を知る愛好会OB・OG参加者を驚かせた。大会当日は事前申し込みのほか、多くのN・Gクラスの参加者でにぎわい、当日参加者は初めて1000名を超えた。

第19回大会 1996年10月20日 「花貫渓谷」 主管学年20期(94年入学)

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 前回大会の参加者アンケートに多かった「遠くとも良いテレイン」を要望する意見を反映して、この地が選定された。会場は当時茨城県OL協会があった高萩大心苑で、大心苑からテレインまでバス輸送が行われた。大会当日が衆院選挙の投票日と重なってしまい、テレイン本部として借りる予定だった公民館が投票のため使えなくなった。携帯電話も通話圏外で、会場本部とテレイン本部との間を公衆電話への電話と、定時連絡に係員を割く形でカバーしていたという。
 「入四間」系統とは異なる趣の県北テレインであり、茨城県下では「入四間」と並ぶ名テレインであろう。しかしながら、ほとんどのコースで予想ウィニングタイムを大幅に超えることとなり、参加者にはコースセットがやや不評であったようだ。地図上でのコースプランと実際の現地での走り易さに乖離があったらしく、コースセットのあり方を反省課題としている。

第20回大会 1997年10月26日 「下野軌道」 主管学年21期(95年入学)

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 筑波大大会20回目を記念して良質なテレインを、ということで万全を期して「熊ノ木」リメイクに踏み切った。例年より早く渉外を始めたこともあって当初は順調に進んでいたが、矢板高校を会場として借りる交渉に時間を要した。最後には筑波大学長印を要求され、決死の思いで大学本部棟へ学長印の申請に行ったという。
 このように日本最高級のテレインで、万全の準備で臨み、成功裏に終わった大会の陰では、大会当日が図書館情報大学の学園祭と重なったため、図情大の運営応援を得られず、90名でのぎりぎりの運営となった。また、運営者を震撼させたのは蜂である。何人もの参加者に被害が出て、病院送りも出るほどだった。大会本部は、蜂のいる付近のコントロールを閉鎖して、主要コースのほとんどを不成立にするまでの決心をしたというが、現地役員の行動力のおかげでそれを免れたという。
なお、この大会では、主要な大学・クラブ大会のなかで初めて電子パンチシステムe-cardが導入された。


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Last-modified: 2021-12-30 (木) 03:37:47 (1013d)