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筑波大大会第1回以前

情報提供:保延光一さん<75>・石澤 宏さん<76>

【 初めての大会 〜 学園祭 1976年10月10日 】

 初めて大会を開いたのは1976年の学園祭だった。大学の西側、当時「東平塚」と呼んでいた地域の地図をコピーして、ベニヤ板と角材でポストを作ってコースを組んだ。キャンパス内(サッカー場北側ペデストリアン)に受付、スタート、ゴールを設けたので、地図の中にはキャンパスも入っていたが、当時「東平塚」と呼んでいたのは、筑波大学に隣接した西側一帯のことで、O−Mapがあったわけでもなく、「東平塚」というのも通称であった。当初はこの場所で技トレを盛んにやっていたが、「吉瀬」や「下平塚」ができてからはほとんど使われなくなったそうだ。
 この学園祭のときは、将来の本格的な大会開催を意識していたわけではなく、また、驚愕の「武蔵野大会」はその後のことで、まだ愛好会の活動自体が本格化していなかった。また、当時は大会の数もはるかに少なく、地図もほとんどの場合、地形図のコピーかそれに毛の生えた程度で、ポスト設置の原則も無ければディスクリプションも無いといった時代だった。パーマネント・コースを回ろうが、大会に出ようが、オリエンテーリングとしては大して変わりは無く、大会を開くといっても、普段のパーマネント・コース回りのようなオリエンテーリングをみんなにも体験してもらおうといった程度の気持ちだったそうで、たくさんの人たちに参加してもらえれば十分だと思っていたそうだ。

【 驚愕の武蔵野大会 】

 多色刷りMapに驚いたのは1976年11月の公認武蔵野大会。このときは筑波大のメンバーだけでなく、オリエンティアのほとんどが驚いたそうだ。何しろ規定時間内にゴールできた者はごく少数だった。筑波大のメンバーは全員が規定時間外か棄権だった。
このころはJOLC(日本OL委員会=現在のJOAの前身)の派遣事業があって、全日本大会の優勝者を中心にO−RINGENに派遣していた。そこでヨーロッパの精度の高い地図を見た人が、「日本でもこんな地図を作りたい」と思ったのだろう。それが形に表われた最初が、多摩OLCが主管で開催した武蔵野大会だった。
 これを機会に多色刷りMapがどんどん作られていくが、まだまだ地図記号は統一されていなかったし、通行可能度も入っていたり、いなかったり、精度に疑問のあるものも多かったそうだ。寄金先生がスポーツ・デー企画とはいえ「自分たちで地図を作って大会を開け」と仕掛けたのは武蔵野大会のわずか半年後のことである。

【 初めてのオリジナルマップ 〜 春のスポーツ・デー 1977年6月15日 学内 】

 1977年の春のスポーツ・デー企画で、初めてオリジナルの地図を作った。この年に寄金先生が筑波大学に着任し、先生の呼びかけで学内で大会を開くことになった。誰も地図調査の経験がないなか、寄金先生の「作ってみろ」という言葉で手探りで始めた。1977年5月に調査、梅内康博氏<75>が作図で、1色刷りのキャンパスマップが出来た。大会運営は、寄金先生の指導を受けながら乗り切り、自信が湧いてきたそうだ。

【 謄写版マップの作成 〜 学園祭 1977年11月3日 】

 春のスポーツ・デーが終わった直後から秋の学園祭でまた大会を開こうという雰囲気になった。当時「宍塚」と呼んでいた「吉瀬」を多色刷りの本格的O-Mapにしようということから、夏休みに1年生も含め総動員で調査を開始した。ところが、調査はなかなか進まず、2週間ほど前になり印刷業者に出しても間に合わないことが判明した。そこで「謄写版で地図を作ろう」という保延氏の提案で、初めての1:10000、等高線間隔5m、4色刷りマップができあがった。
 大会は正規の学園祭企画として行ったが、学園祭企画は学内で行うものに限られているため、企画書上はスタート・ゴールは学内に設けるが、実際にはそれは第一スタートで、そこからストリーマーでテレインまで誘導して、そこに第二スタートとして本物のスタート地点がある。ゴールもテレイン内にあるのは第一ゴール。それを参加者にわかってもらうように説明して、吉瀬コースと学内コースの2本だてで進めたそうだ。

【 春のスポーツ・デー(1978年6月21日学内)から筑波大大会の開催へ 】

 翌年1978年に入ると、6月に春のスポーツ・デーの大会をまた成功させ、大会運営にもかなり自信がついてきた。このころ学生大会は1977年には多色刷りMapで行われるようになり、また、愛知大などは活動が盛んで、実力者が何人かいたそうだ。しかし、このころの大学クラブで単独で大会を開ける実力があったところは少なく、筑波大は早稲田大、千葉大、横浜国大、愛知大などとは活動の活発さや規模、実力の面でやや遅れをとっていたが、それほど差があったわけではなかったそうだ。
 これまでの2回のスポーツ・デー企画と2回の学園祭企画での大会開催経験が大きかったのはもちろんだが、1978年の第1回筑波大大会のときには自信が確信になり、当然自分たちは本格的な大会を開くべき団体だという意識はみんなの中にできていた。なんの躊躇もなく自然の流れとしてそのようになっていた。のちに、第2回大会「柴崎」では地図や大会運営には絶対の自信があったことに加え、1年生が多数入会したこともあり、サービスに力を入れることができた。それが評判を呼び、第3回ではトップエリートも集まるレベルの高い大会として認知されたことにつながっていく。

 このころには、「吉瀬」の常磐自動車道の工事はもう始まっていて、夏、朝早起きし、午前中の調査をして、昼に食事をして一息ついてから調査区域に戻ってみると、電動ノコギリの音がけたたましくうなっていたことがあったそうだ。午前中に何時間もかけて調査したところが、あっという間に伐採されてしまったのだ。
 建設途上の学園都市という性格上、地図調査は開発との格闘という側面もあった。大学南東部にヤブヤブだが丁度いい起伏と林の多い場所があって目をつけていた。雨宮光陽氏<77>も同じところに目をつけ、調査もほとんど済ませていたが、「作図しよう」と思っていた矢先に、万博会場となることが発表された。雨宮氏はがっかりして作図をやめたそうだ。この万博会場はいま「ぽっかりが丘」となっている。いわゆる「東平塚」の地域も平塚線(県道土浦境線)に分断されたし、「柴崎」も開発とのイタチごっこと松枯れでダメになっていった。のちに「吉瀬」も「柴崎」も植生が概して悪いと評されるようになるが、当時はそれほど悪くはなく、通行可能度Aのところはたくさんあったそうだ。悪くなったとしたら、それは松枯れによって悪くなったのではなかろうか。

 第1回筑波大大会のときは、今と比べれば会員数ははるかに少なく、学年に関係無く、できる者ができる役割りをやるというやり方だったそうだ。と言っても、4年生の実働メンバーは少なく、1年生はまだ戦力にはならなかったから、当然2,3年生が中心という形になった。
 第2回筑波大大会のときは、人数が大幅に増えたこともあり、4年生は下級生に任せようという雰囲気ができ上がっていた。その中で3年生がより責任が重いということはもちろんあったそうだが、3年生が運営のメインの学年という形式が決まっていたわけではなく、自然な流れとして3年生中心に運営が進められた。
したがって、当時の大会運営方式を現在のやり方に当てはめて考えてることは、説明不可能である。少人数ゆえに、主要メンバーがそれぞれ自分の持ち場の責任をこなし、お互いにそれを信頼していた。そして、主要メンバー一人一人が全体に目を配って、お互いに助言し合うという運営のしかただった。学年の違いなどあまり意識せずにやっていたところは、今とは感覚が違うのではないだろうか。1975〜78年入学までの人たちには、学年の区別よりも、苦労を共にしたという事実の方がはるかに強い絆として意識されている。
 初期のころの何年間かは、オリエンテーリングに対する価値観や捉え方、路線といったものは多種多様で、何期生とか何学年とかいう枠組みで論じようとしても論じようが無いのが実情だそうだ。


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Last-modified: 2021-12-30 (木) 03:32:05 (841d)