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本格的印刷マップで対外的に大会を開くようになったのは、地図調査も上達し、独り立ちできる者も増えたもので、前年の謄写版マップではあきらめていた通行可能度も入った地図が出来た。複数の会員で作図したので、特にマッパーという言い方はなかったそうだが、こうして記念すべき初代「吉瀬」が誕生した。
大会記念誌には「村民大会」くらいの規模と書かれていたが、保延氏のコメントによると、『それほど規模は小さくなかった。「県民大会」くらい』だそうだ。広報の段階では、不安があったからPRを県内レベルに留めたが、大会当日は「全国広報すりゃあ良かったなあ」と思ったくらいに、完成度の高い大会だった(保延氏)。公認大会常連者や実力者も何人か参加していた。特に水戸OLCからの参加が多く、お礼にこの後の水戸OLCの大会に何人か参加した。
第1回大会を終えた愛好会員のなかから「また大会を開こう」という気運が盛り上がったのはいうまでもない。今回は積極的な広報活動を行い、大学クラブからもオリエンティアが集まった。当時の愛好会には女子が多く、大会当日も受付やスタート、サービスなど参加者との接点に重点的に女子が配置され「サービスの筑波」を印象づけた。毎年参加者にふるまわれる甘酒もこの大会から登場した。
初めて筑波から離れたところで開かれた大会である。そのために、会場手配や大会後援の取り付けなど渉外には苦労した。起伏のあるテレインでの地図調査も初めてで暗中模索であった。調査は夏にテレイン内のキャンプ場に3〜4泊して行われたが、くもの巣、蛇、蚊に悩まされ、大変な苦労だったそうだ。また、当時は自動車を持っている会員は少なく、テレインまでの20kmを自転車で往復した者が結構いたそうである。この大会から大学クラブのインカレセレクションに使用されるようになった。
この大会から現在のような地図調査日程(3月基礎調査,4月一次調査,5月二次調査)で行われるようになり、宿を取って行うようになった。それでも二次調査はまだ秋口に行なわれたらしく、マッパーは大変な忙しさだった。このときから12月に大会を行うようになり、茨城県教育委員会、開催地関係教育委員会、茨城県OL委員会(現茨城県OL協会)の後援名義を使用するようになった。
実は、「木葉下」を見つけるまで、第10回大会のテレイン「かたくりの里」での開催を考えていたそうだが、県立コロニーの土地利用に関する承諾が得られず断念した経緯があったという。
第4回、第5回大会あたりから現在の筑波大大会の形ができあがってきた。大会自体も大学クラブのインカレセレクションに指定されるなど適正なコースセットと正確な大会運営が要求されるようになってきた。特にコースセットについては、難易度の高いコースセットを目指すあまり、ヤブ通しなど競技の公平性を欠くことがしばしばあるが、この大会では難易度を犠牲にして不公平の恐れを回避したものと高い評価を受けた。翌年の学園祭で出した模擬店はずばり「秘密の“春園”」であった。勘違いした男性客がいたとか、いなかったとか…。
この頃のOL界の風潮として「遠くてもきれい」なテレインが望まれ、茨城県内でテレイン探しを行っていたところを、急転直下、栃木県での開催を決断させた。しかし、グリーン&イエローの地図に馴れた愛好会にとって、スーパーAの林の地図調査は能力を超えており、大変な苦労だった。さらに、大会当日はハンター対策をはじめ、雪のため参加者の1/4が遅刻者という事態となった。それでも、テレインの質と運営の心配りは最高の評価を受ることになった。
また、「喜佐見」は愛好会の歴史に忘れ得ない教訓を残した。「喜佐見」は大会終了後も合宿などに使われ、マップの売り上げは愛好会の財政を潤わせたが、無届け合宿が行われたため、地元から苦情が出たのだ。無届け合宿を行ったクラブも悪いが、届けを出さないようなクラブに地図を売った愛好会にも管理責任がある。そもそも、マップがあればテレインを自由に使えるものではなく、地元の理解があってこそであるという認識に欠けていたオリエンティア全体の甘さを指摘した事件であった。
テレインが猟区にあることがわかり、大会開催が例年の12月第3日曜日から10月に移った大会である。12月開催で準備を進めていたことから、10月への変更案に対して、連日午前2時をまわるミーティングが開かれた。最終的には「万全を期すべき」という論が占め、10月開催が決定された。6月の総会での決定だったという。マッパーの丸山浩史氏<82>は7月中に地図を書き上げ、ヨーロッパに遠征に行くという離れ業をやってのけた。この大会から、愛好会専用のパンチ台を使用するようになったが、これは当時のOBが軍資金を出してくれたことによるものだそうだ。また、計算センターに初めてパソコンが導入されたが、ゴールする参加者数に情報処理能力が追いつかず失敗に終わった。
3年ぶりに茨城県に帰ってきた筑波大大会である。平穏に終わったように見えた舞台裏では、コンピュータ化への挑戦がまたしても失敗に終わってしまった。この第7回、第8回大会での試みは、スタートリストの作成から未帰還者チェック、成績表づくりと出走者管理だけでなく、ゴールタイマーの機能まで追求したものであったが、ひとたびトラブルが発生するとゴール時間の計測や未帰還者のチェックなど大会の成立にかかわるリスクが大きい。コンピュータ化の手続きと同時に、従来の手作業方式の2重チェックを行っていたのは不幸中の幸いであったが、結果的に両係りに大きな負担がかかった。2年連続の失敗は関係者には大ショックで、以後の大会では計算センターへのパソコン導入には消極的になった。
会場となる小学校が大会1ヶ月前まで決定されなかったという苦労話がある。体育館を借りるための渉外の中で、愛好会側と小学校側との行き違いから発生したもので、最終的には当時顧問だった寄金義紀先生の助言を得て、無事小学校を借りることができた。初回の小学校訪問から9ヶ月を要したそうだ。大会では、急斜面のためけが人が多く出た。また、HE(現在のME)では距離を稼ぐために平地を横断する2kmもの道走りレッグが組まれていたことは有名である。
寄金先生によれば、会場問題は「事件」と呼ぶほどではないが、愛好会の熱心さが必ずしも良い結果に結びつかない一例だという。大会が山林地主と小学校の好意で開催できる以上、周辺への配慮と地元への感謝の気持ちを忘れてはならないことを教訓として残したのではないだろうか。
当初「木葉下」のリメイクを考えていたが、テレイン中心部にある精神薄弱者施設の県立コロニーの使用許可が下りたので開催が決定された。リメイクの計画と県立コロニーの許可など第4回大会との因縁を感じさせる。県立コロニーの所有地の扱いには苦労があったらしく、大規模な草刈りや再調査などが行われたそうだが、コースセットはおおむね好評を博したそうだ。初めて事前申し込みが1000名を超え、また、筑波大大会10周年記念誌が編纂された。