「僕たちの失敗」

茨城大学オリエンテーリング部 福留潔

 東京郊外のやけにキャベツ畑が目立つ埼玉と接する武蔵野台地の北側あたり、西武池袋線に面して東京都立保谷高校がある。その高校には全国で20もないオリエンテーリング部があった。私、福留がこの保谷高校に入学したのはスペースシャトル・ディスカバリーとソ連チェルノブイリ原発が爆発した1986年春だった。
 小学生低学年の頃、住んでいた東久留米市の催しで、現在の加治丘陵でオリエンテーリングをやったことがあった。そのころポストとは郵便ポストのことだと信じ、ていたため「山の中にポストがあります。」という説明をうけ、その異様な光景を想像して興奮したのを思い出す。さらに所沢の航空公園で行われた小学校の全校遠足の地区班対抗オリエンテーリング競争で優勝したことがあった。これは一番早いチームが優勝ではなく目標タイムに一番近いチームが優勝であった。私のチームは近所に住んでいた堤兄弟の兄弟ケンカのおかげで栄冠を手にすることができたのだ。勝負がナマモノとはよくいったものだ。こうした経験が下敷きになったかどうか判らないが、オリエンテーリング部を見つけおもしろそうだなと思い入部することにした。

 当時、オリエンテーリング部は「走る文化部」と言われていた。個人競技の性質上、男子、女子が一緒に活動し、技術の直接的な練習ができないため、周囲から何やってんだろと思われていたからだ。普段の部活はランニングや筋トレ、O-MAP「キャベツ」を使っての市街地OLだった。トレーニングといっても実際に運動するのは30分くらいだから、それが終わると2時間くらいは、雑談やらなんやらで、正直言って文化部だった。
 それでも同期の仲間全員男子で6人、一つ上の先輩が男女8人で活発に活動していて楽しかった。この頃は学生になってもOLを続けていたOB達が練習や練習会に出てきてくれて、技術的な指導なんかをやってくれた。
 入部して2カ月もした頃だろうか、受験勉強で引退していた当時の3年生達(13期生)が部活に顔をだした。新入部員を全員集めて、おまえ達に話したい事があるというのだ。なんだろう?とみんなで怪しげな喫茶店に連れていかれ、話を聞いてみると、それはいわゆる自分たち1年生をかまってくれるOBに対する悪口だったのである。まだ若かった、といえば言い訳になるだろうか。結構その話を面白がって聞いてしまい、信じ込んでしまった。3年生達は言葉を変え、いろいろ遊んできて楽しかった。オリエンテーリングをしっかりやらなくても高校2年間十分楽しんでこれた。あんなOBの言うことを聞くことはない…。こんな事を熱っぽく語った。いわゆる洗脳だったのだ当時の3年生は上手にそうした種を新入部員の心に蒔いたのだ。

 OBと3年生(13期生)の確執というのは、どうやらクラブ運営に対し口を出した事が原因のようだった。13期生が2年生で運営学年のときOB1年目の11期生がそうとうのプレッシャーを与えた結果の反発だったのだ。11期生というのは学生になってオリエンテーリングを続けている人が3人位いてそういう意味で意識の高い人が多かった。一方13期生は、一応オリエンテーリングはやるけど遊びの方で盛り上がっていた。そうした状況に11期生は危機感を感じプレッシャーを与えたようだった。ここで問題なのは立場の違いである。OBというのは年をとっていることもあり、結構現役生徒には、大きな存在

なのだ。対等に渡り合っても打ちまかされるそう思ったのだろうか、13期生のとった行動はオリエンテーリングという土俵から逃れることだった。
 3年生(13期生)が1年生に語った言葉に「OBになったらクラブに対して口を出すもんじゃない」というのがあった。この言葉はある一面では正しいのだが、自分たちはそのこと全面的に正しいことだと考えるようになってしまった。
 こうした一連の3年生の行動は、OB達がクラブを立て直そうと練習会を開いたり要するにちょっかいを出しているのをやめさせようと考えたからだった。

 年次が変わり私達は2年生になり私は12代部長を拝命した。後輩にあたる16期生の新入部員が男女合わせて10人くらい入部した。この年は11期生の代も忙しくなり、あまり顔を出さなくなった。新たにOBとなった13期生は「OBは口を出さない、自分たちで好きにやればいい。」と半ば逃げ口上で、私たちを全くかまってくれなかった。この年の合宿は現役の生徒がすべてを取り仕切るという前代未聞の形式で運営をする事になった。実際、私はオリエンテーリングを始め1年、若葉マークがとれたばかりで初心者に指導する責任を負ったのだが、正直言って自分が何をすればいいのかわからない、とりあえずなにかやろうといった感じだった。
 はじめクラブの雰囲気は非常に盛り上がっていたのだが、それはオリエンテーリングとはずれたところでの盛り上がりだった。こうして矛盾をはらんだ部活はその年の後半で表面化した。
 私の統率力のなさ、先見性のなさ、問題意識のなさ、指導力のなさ、精神力のなさがみんなの気持ちをオリエンテーリングに向ける事ができなかった。何かおかしいのだけど何がおかしいのかわからない、そして何をどうすればいいのかわからずその場の流れに身を任せ何も出来なかった。私は一応自分なりにオリエンテーリングのおもしろさを知っていた事もあり、またそこそこオリエンテーリングができたので表て向きクラブは成り立っているように繕えた。
 半ば投げ出すように、2年生の2学期で私は部長職を降りた。そしてオリエンテーリングの魅力を知るものがクラブを引き継いだかというと、それは否であった。私たちは先の11期生OBからある程度体系的にオリエンテーリングを導入されたが、後輩にあたる16期生にはOBがやってくれただけの事をしてやれなかった。結果として私たちの代はオリエンテーリングの面白さを知ることが出来たが後輩の16期生はその魅力に触れさせられなかった。楽しいお遊びの味はしっかり味合わせたのだけども。このころクラブでは「OBとなったら口出すな」というのが金科玉条になっていた。

 さてクラブのかかえた矛盾というのは、お遊びばかりに偏ってしまいオリエンテーリングを忘れたことにある。それでも楽しければいいのかもしれない。しかしクラブというのはお楽しみだけではうまく成り立たないようであった。15期生16期生のあたりまでは一応オリエンテーリングをやってお遊びがったのだが、15期生がいなくなり、オリエンテーリングを知らない世代がクラブを運営するようになって、それまでなんとか保たれていたバランスが崩れてしまった。
 16期生が中心となって行われた新歓で入部したのは女子4人だけだった。この17期以降、現在22期生までの間でクラブに定着した男子は二人だけである。
 オリエンテーリング部では「引き継ぎ」をたったの一度行わなかったために忘れてしまった。クラブ運営というのはノウハウとして伝授されるべきものだが私たちの代は好き勝手にやって、そうしたノウハウを身につけずまた伝授しなかった。適当にやってそれがクラブ活動だと言えばそれでよかった。

誰も文句をつけず、思うようにやった。それが出来たのは私たちの代に企画好きな奴、妙にパワーのある奴がそろっていたこともある。正直いって私は「引き継ぎ」の必要性なんてのは気が付かなかった。代替わりして人が一新すればどうにかなるんじゃないかといったレベルでしかみていなかった。しかし本当は私たちはクラブを運営していたんじゃなくクラブというサークルのなかで遊んでいただけだった。そして個人でオリエンテーリングを楽しんでいた。

 リカバーリング
 17期生が入り私たちは3年生になり引退した。時たまクラブの様子を耳にすると運営で行き詰まっているようだった。確かこの頃だったと思うが、クラブでオリエンテーリングをしっかりやっていないのが問題じゃないのかと顧問の先生から指摘された。この問題提起を契機に、OBや自分たち上級生の協力によってクラブの「オリエンテーリング回帰」を私は主張した。しかし、同期である15期や16期生から猛反発を喰らう。「OBはクラブに口を出すべからず」このもはやイデオロギーとなってしまった言葉が、みんな現在の問題点に気が付き始めていながら、解決の手段を封じてしまっていた。OBとなってクラブに口を出す必要があっても、現役が望まないのであればクラブがつぶれてしまってもいいじゃないか。こう言った議論がまかりとおっていた。まるで宗教上の道義から自分の息子に輸血を受けさせず死を選択するようなものである。死にそうな息子に私たちはこうゆう信条を持っているがおまえはそれでも輸血を望むのかと迫っているようでもある。未熟な私はこのロジックに何かしら矛盾を感じつつもそれを突き崩すだけの力がなかった。

 冬にりゅう座の流星群に進学をお願いしただけあって、小平市小川にある東京職業訓練短期大学校の制御機械科というところに入ることが出来た。この年私はインターハイ実行委員会に入り、山中湖・籠坂のマッパーを務めることになった。そしてインターハイの仕事を通じて他の高校のOBたちと深く知り合うことが出来た。ここでの経験が私の人生で大きなターニングポイントになったことは否定できない。
 さて同じ都立高校に国分寺高校というのがある。ここでは一期ひとが全くいない代があった。高校のクラブは二年しか在籍できないためたった一代途絶えるということはクラブが一気に衰退してしまう。一年生が何人か入ったのでOBたちが連携してクラブの面倒をみるといったことをやっていた。この代というのが、佐藤飛文や伊藤晶子、加藤直子らで、大学に行ってもオリエンテーリングを続けている人が多く出た。こうした他校の様子を見たり聞いたりしているうちに、これまで自分では気が付かなかった問題点が明確なってきた。これをまとめてみると

 1.オリエンテーリングのクラブは競技の性格上、OBの力添えは絶対に必要。
 2.ただしクラブの運営面では現役生の自主性を尊重するべき。
 3.OBがなにかする場合は現役生との信頼関係が基盤となる。

以上の3点はオリエンテーリングのクラブをやっていく上である程度普遍性を持っていると思う。
今回一橋学芸の合宿に参加させてもらって、どこのクラブでも抱える問題点は同じだとあらためてかみしめる気分だった。それはオリエンテーリングクラブの運営の難しさである。そこら辺は川和高校地理部二〇周年記念の冊子で同校OBの天野仁が長々と書いているので参考にするといいと思う。