矢板25年史

1983年 第6回筑波大大会 「喜佐見」

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当初この大会は茨城県内で開催されるはずであり、テレイン探しも茨城県内の県央地域、県南地域が候補地として取り上げられていた。
ところが愛好会員の親戚が矢板付近に住んでおり、その愛好会員もそこにきれいな林があることを知っていたことから事態は急変した。当時の風潮として「遠くてもきれいなテレインを」という声があり、また茨城県内のグリーン&イエローの地図にうんざりしていたこともあって、矢板地区にて開催することが決定した。

今までの茨城県での渉外と異なり、栃木での渉外は難航した。茨城県で比較的簡単に後援がとれたのは、当時顧問の寄金先生が茨城県協会の役員であったおかげであろう。当初は他県の大学である筑波大学に対して、良い印象をもってもらえなかったが、寄金先生の協力や必死の説得により大会当日のみ使わせてもらえることとなった。

今までグリーン&イエローの地図に慣れていた愛好会員にとって、スーパーAの白い林が広がるテレインは未曾有のものであり、調査は難航した。
特に矢板市と塩谷町の境界は原図のずれが大きく、歪みを強引に取り繕うこととなった。ちなみに、この境界のずれは2005年の全日本大会でGPSが導入されるまで引きずることとなる。

大会当日は前日からの雪で東北道が一部通行止めになり、遅刻者が続出した。またハンター問題などで大きな課題を残した大会でもあった。
このようなトラブルがあった中ではあったが大きく広がるスーパーAの林は、これまでのグリーン&イエローの筑波大大会のイメージを払拭した。

そしてこの素晴らしいテレインには各地からオリエンティアが殺到することになった・・・。

渉外問題と栃木県協会との冷戦

1985年、第9回大会を再び矢板地区で開催することを計画した。
テレインとしては南喜佐見(現「矢板幸岡」)をメインとして考え、日光地区をサブと考えていた。
しかし挨拶に伺った植竹(人間84)、野林(農林84)、武藤は栃木県協会会長関根氏にこっぴどく説教されることとなった。喜佐見のテレインはそもそも第6回大会当日のみ使用を許可されており、それ以降については地元の了解や教育委員会、県協会の後援は得られていない。にもかかわらず喜佐見の地図を増刷し使用するとはどういうことなのかと。
当然のことながらテレイン開発は南喜佐見、日光地区はともに却下され、すごすごと帰路につくことになった。

またこの話とは別に、喜佐見をもとにパーマネントコースを作る話が栃木県協会側から持ち上がっており、喜佐見の版下を貸す話が出てきた。先の話もあり、また版下に修正を加えるなどの話が出てきた辺りで愛好会と栃木県協会で揉めることとなり、これ以降、愛好会と栃木県協会は冷戦状態に入った。

このときの渉外に関する考え方は愛好会に衝撃を与えた。
当時、渉外に対する考えは愛好会においてもさほど進んでおらず、山を使わせてもらっているという認識も薄かった。根本的な常識に欠けていたのだ。パーマネントコースで揉めていて、栃木県協会に良い印象をもっていなかった愛好会もこの点においては納得せざるを得なかった。

このとき関根氏を訪問した植竹は、後に日本学連オリエンテーリングセミナーにおいて、渉外問題について取り上げ、テレインの使用をもっときちんとするよう訴えた。これによりそれまでうやむやだったテレイン使用の報告が徐々に制度化されていくこととなる。

栃木県協会との和解、そして・・・

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1987年11月、「筑波大大会10年のあゆみ」作成のための取材と銘打ち、植竹は当時の1年を連れて栃木県協会会長関根氏のところへ謝罪に伺った。このときの関根氏の対応は2年前とからは想像もつかないほど温和なものだった。覚悟していた説教もなく、喜佐見の版下も返してもらうことができた。パーマネントコースについては未解決ではあるものの、渉外問題についてはお互いの認識を同じにすることができたのだった。
こうして「筑波大大会10年のあゆみ」は作成された。

87年12月、自然休養村から電話が植竹にかかってきた。休養村の山を使ってオリエンテーリングのコースを作ってくれないかとのことだった。当時、喜佐見を元にパーマネントコースが作られたが、難しすぎたため塩谷町としては町のお金で休養村にパーマネントコースを作りたいとのことだった。このことについて栃木県協会の関根氏に問い合わせたところ、自然休養村で関根氏に問い合わせをした際に植竹を紹介されたとのことだった。
このパーマネントコースを作ることで、塩谷町、県協会の信用を得られることなどを考え愛好会ではこの申し出を受けることにした。この地図は88年2月に完成した。「大平崎」である。

88年1月、ようやく筑波大大会10年のあゆみが完成し、関根氏に郵送したところ、後日電話がかかってきた。「喜佐見の件は、きちんとした手続きを踏めば使っても問題ない」とのことだった。

1989年 第12回筑波大大会 「熊ノ木」

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1988年8月。当初、喜佐見で大会という話がありつつも、とりあえずはということで茨城県内でのテレイン探しが始まった。岩瀬燕山や茨城県北などをまわったもののテレイン探しは行き詰まり、できることなら喜佐見での開催をとの考えが強くなった。

88年11月。当時、顧問の寄金先生に相談したところ、喜佐見での開催は肯定的で、良いテレインを再開発する意味でも良いのではないかという意見を受けた。

88年12月。第11回大会も終わり、次の大会へ動き始めた。第12回大会の実行委員長杉崎と渉外担当者柴沼は、とりあえず栃木県協会会長関根氏と話し合いを持ってみることにした。
話し合いの際、愛好会は以下の条件を提示した。

・12月に喜佐見のRemakeで筑波大大会を実施したい。
・地元渉外は責任をもって行う。
・テレインは大会後、閉鎖する。
・地図は必要枚数しか印刷せず、白図も売らない。

関根氏は栃木県内でのテレイン開発は認めていないが、以前から付き合いがある愛好会であり、喜佐見Remakeであれば良いだろうということとなった。
当時、県協会には他大からも何度かテレイン開発申請があったがすべて断ってきたという。筑波だから許可するんだという話を頂いた。これには先の自然休養村の地図作成などの活動が評価されたためだろう。

栃木か茨城か

栃木県協会の了解も得られ、栃木開催という話が出たところで待ったがかかった。筑波大は茨城の大学なのだから茨城県内で開催すべきではないかという話が浮上したのだ。再度、茨城県内でのテレイン探しも始まり、最終的には喜佐見か日立かというところまで絞られた。これには茨城県内での普及、日立製作所のバックアップ、喜佐見が遠いこと、猟期の問題など様々な要因が絡み、会内で意見は真っ二つに割れた。
最終的には自分たちが納得する場所でやるということで喜佐見に落ち着いた。

栃木開催準備

89年2月、茨城県協会に正式に栃木開催の旨を伝え、栃木県協会への開催以来に当たっての後方支援を依頼するとともに、翌年は茨城に戻ってくることを約束した。その後、関根氏を訪問し、正式に大会開催を伝え、後援と関係機関の紹介を依頼した。このとき関根氏からは地図の範囲、枚数に関して取り決めを結ぶことを要望した。これは後年の朝日大会(「矢板」)との兼ね合いと思われた。また大会後の地図使用に関して、愛好会に限って使用を認められた。

その後、県協会の後援の元、教育委員会への渉外、地元渉外が始まった。地元渉外は当初、地主を一軒一軒回ることを考えたが、多すぎるため区長と有力者に挨拶することで代わりとすることにした。役所で区長を紹介してもらい、矢板市の渉外はうまく進んでいた。
しかし、塩谷町の渉外は難航した。
かつての喜佐見のトラブルを覚えている人が多く、難色を示されたのだ。これには教育委員会の方が協力的にフォローしてくれたことや愛好会員の真摯な態度での説得が実を結び、使わせてもらえることとなった。

大会当日は地元渉外のおかげか、地元青年団による物品販売、町内会報の取材などかなり地元に歓迎された。「来年もお願いします」との声も聞かれ、今までにない形でのオリエンテーリングの地域への貢献を果たした。

1997年 第20回筑波大大会 「下野軌道

第20回の記念大会であり、良いテレインで開催したいということで、矢板開催はすんなり決まった。栃木県協会との話も大きな問題なく進み、既存の熊ノ木Remakeということで落ち着いた。

栃木県協会との話はすんなり進んだが、会場となる矢板高校との交渉は難航し、最終的には筑波大学学長印を求められるほどの話となった。

熊ノ木当時の渉外のおかげで地元の印象も良く、大会は成功裏に終わった。
大会後は熊ノ木時代から変わらず、愛好会のみ使用を認めるという形になった。

筑波の「下野軌道」から学連の「矢板」へ

2002年のインカレは当初、千葉での開催が予定されていた。
しかしインカレ実行委員会が現地の状況を調査した結果、適当なテレイン・学生宿泊施設を見つけることができず、千葉での開催は断念された。日光インカレ(2000年)の後のことである。

元々のインカレ構想として4年に1度日光地区、関西、関東のどこか、東海のローテーションがあった。しかし関東圏でもインカレに適した地域を探すということが次第に困難になってきた。
そこで新規テレイン開発ではなく、関東のどこかを基本的には矢板地区に固定するという案が学連理事会(山川氏?)よりあげられた。

ここで矢板地区が選ばれた理由がいくつかあった。
・全国有数の良い林があること
・モデルイベント・クラシック・リレーといった一連の大きなイベントが行えること
・大勢の宿泊ができる宿泊施設が整っていること
・野外活動施設が整っていること
・世界選手権などに向けた地図作成、運営、競技能力の強化
このように山川氏の中には矢板の開発に当たり、インカレだけにとどまらない大きなビジョンがあったようだ。

愛好会に矢板地区でのインカレの話が知らされたのは、インカレ実行委員会に話がいったのと同時で日光インカレ後の学連総会後であった。学連理事会としても千葉と矢板の両方での開発を考えていたようだ。
その後、愛好会内、愛好会と山川氏で話し合いが行われ、
1.矢板を譲ったあと、筑波大は栃木県内の別の場所にテレインを開発して良いこと
2.日本学連は下野軌道の版権代として10万を支払うこと
大きく上の2点でまとまった。
この話をもって愛好会(武政、増田)、山川氏、栃木県協会との話し合いが行われ、了承された。

---当時の総会資料---
『下野軌道』に関する件
 去る4/29日栃木県協会会長関根氏との話し合いにおいて、
[下野軌道の使用を白紙に戻す代わりに栃木県内の新たな場所において、
来年度以降に筑波大大会を開催する許可をする]というお話がありました。
執行部は基本的にこれを了承し、『下野軌道』の白図は栃木県協会が買い取るという方 向で話を進めることになりました。
---当時の総会資料---

別記のとおり、栃木県は基本的に他県からの開発を認めておらず、あくまで矢板地区の代わりということで栃木県内の開発が認められた。また学生クラブが版権を持った地図を学連がRemakeということは、珍しいことではあるが、第16回インカレの「行幸田」など過去にも例は存在する。

こうして矢板地区は愛好会より正式に日本学連へ移譲された。

2002年 矢板インカレ 「やしお」「番匠峰古墳」

2003年 矢板インカレショート 「☆彡しおや」

矢板全盛期

2006年 矢板インカレ2006と既存テレイン

矢板インカレ2006から現在

筑波の栃木テレインのその後

2001年 第24回筑波大大会 「恋こがし山」栃木県宇都宮市

2006年 第29回筑波大大会 「土の里」栃木県宇都宮市・鹿沼市

Spcial thanks

青柳 琢(千葉OB)
稲垣 智彦(筑波OB)
植竹 康朋(筑波OB)
太田 恒平(東京OB)
小比賀 健司(筑波OB)
酒井 健治(筑波OB)
佐々木 良宜(筑波OB)
武政 泰輔(筑波OB)
田中 博
千葉 妙
花木 睦子(千葉OG)
花田 拓紀(筑波OB)
日置 紳二(筑波OB)
土方 隆(学連理事)
増田 佑輔(筑波OB)
宮佐 俊佑(筑波OB)
三橋 浩志(筑波OB)
武藤 拓王(筑波OB)
山川 克則(学連理事)
山口 尚宏(筑波OB)
筑波大学オリエンテーリング愛好会
その他、各OBの皆様

注意

この文章は愛好会創設30周年記念イベントにて展示されたものです。
多くの人の話を集めて書かれたものであるため間違いがある可能性もあります。
何か不都合ありましたら問い合わせ先までご連絡ください。
編集者:2007年度OB会事務局 立川 洋

参考文献

筑波大大会10周年記念誌「筑波大大会オリエンテーリング大会10年のあゆみ」 筑波大オリエンテーリング愛好会
昭和62年度卒業文集 筑波大オリエンテーリング愛好会会報部
平成2年度卒業文集 筑波大オリエンテーリング愛好会会報部まわりみちーむ
筑波大学オリエンテーリング愛好会創立25周年記念誌 25周年記念誌編集委員会
日本学生オリエンテーリング連盟活動報告書 Vol.3 日本学生オリエンテーリング連盟

編集後記


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