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 *筑波大大会第6-10回 [#ud61fcdd]
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 **第6回大会 1983年12月18日 「喜佐見」 主管学年7期(81年入学) [#v2316374]
 
  この頃のOL界の風潮として「遠くてもきれい」なテレインが望まれ、茨城県内でテレイン探しを行っていたところを、急転直下、栃木県での開催を決断させた。しかし、グリーン&イエローの地図に馴れた愛好会にとって、スーパーAの林の地図調査は能力を超えており、大変な苦労だった。さらに、大会当日はハンター対策をはじめ、雪のため参加者の1/4が遅刻者という事態となった。それでも、テレインの質と運営の心配りは最高の評価を受ることになった。
  また、「喜佐見」は愛好会の歴史に忘れ得ない教訓を残した。「喜佐見」は大会終了後も合宿などに使われ、マップの売り上げは愛好会の財政を潤わせたが、無届け合宿が行われたため、地元から苦情が出たのだ。無届け合宿を行ったクラブも悪いが、届けを出さないようなクラブに地図を売った愛好会にも管理責任がある。そもそも、マップがあればテレインを自由に使えるものではなく、地元の理解があってこそであるという認識に欠けていたオリエンティア全体の甘さを指摘した事件であった。
 
 **第7回大会 1984年10月21日 「徳次郎」 主管学年8期(82年入学) [#b2584929]
 
  テレインが猟区にあることがわかり、大会開催が例年の12月第3日曜日から10月に移った大会である。12月開催で準備を進めていたことから、10月への変更案に対して、連日午前2時をまわるミーティングが開かれた。最終的には「万全を期すべき」という論が占め、10月開催が決定された。6月の総会での決定だったという。マッパーの丸山浩史氏<82>は7月中に地図を書き上げ、ヨーロッパに遠征に行くという離れ業をやってのけた。この大会から、愛好会専用のパンチ台を使用するようになったが、これは当時のOBが軍資金を出してくれたことによるものだそうだ。また、計算センターに初めてパソコンが導入されたが、ゴールする参加者数に情報処理能力が追いつかず失敗に終わった。
 
 **第8回大会 1985年12月15日 「古徳沼」 主管学年9期(83年入学) [#z3b60ded]
 
  3年ぶりに茨城県に帰ってきた筑波大大会である。平穏に終わったように見えた舞台裏では、コンピュータ化への挑戦がまたしても失敗に終わってしまった。この第7回、第8回大会での試みは、スタートリストの作成から未帰還者チェック、成績表づくりと出走者管理だけでなく、ゴールタイマーの機能まで追求したものであったが、ひとたびトラブルが発生するとゴール時間の計測や未帰還者のチェックなど大会の成立にかかわるリスクが大きい。コンピュータ化の手続きと同時に、従来の手作業方式の2重チェックを行っていたのは不幸中の幸いであったが、結果的に両係りに大きな負担がかかった。2年連続の失敗は関係者には大ショックで、以後の大会では計算センターへのパソコン導入には消極的になった。
 
 **第9回大会 1986年12月21日 「稲田三山」 主管学年10期(84年入学) [#ie97cece]
 
 会場となる小学校が大会1ヶ月前まで決定されなかったという苦労話がある。体育館を借りるための渉外の中で、愛好会側と小学校側との行き違いから発生したもので、最終的には当時顧問だった寄金義紀先生の助言を得て、無事小学校を借りることができた。初回の小学校訪問から9ヶ月を要したそうだ。大会では、急斜面のためけが人が多く出た。また、HE(現在のME)では距離を稼ぐために平地を横断する2kmもの道走りレッグが組まれていたことは有名である。
 寄金先生によれば、会場問題は「事件」と呼ぶほどではないが、愛好会の熱心さが必ずしも良い結果に結びつかない一例だという。大会が山林地主と小学校の好意で開催できる以上、周辺への配慮と地元への感謝の気持ちを忘れてはならないことを教訓として残したのではないだろうか。
 
 **第10回大会 1987年12月20日 「かたくりの里」 主管学年11期(85年入学) [#uca00a1b]
 
  当初「木葉下」のリメイクを考えていたが、テレイン中心部にある精神薄弱者施設の県立コロニーの使用許可が下りたので開催が決定された。リメイクの計画と県立コロニーの許可など第4回大会との因縁を感じさせる。県立コロニーの所有地の扱いには苦労があったらしく、大規模な草刈りや再調査などが行われたそうだが、コースセットはおおむね好評を博したそうだ。初めて事前申し込みが1000名を超え、また、筑波大大会10周年記念誌が編纂された。
 
 

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