[[筑波大大会/第1回以前]] 
[[筑波大大会/第1-5回大会]] 
[[筑波大大会/第6-10回大会]] 
[[筑波大大会/第11-15回大会]] 
[[筑波大大会/第16-20回大会]] 
[[筑波大大会/第21-25回大会]] 
[[筑波大大会/第26-29回大会]]

#setlinebreak(on) 
*筑波大大会第16-20回 [#ud61fcdd]
#contents
**第16回大会 1993年10月17日 「鞍石」 主管学年17期(91年入学) [#y837d823]

 県央に戻ってきた大会。JRなど交通の便も悪くなく、猟期を避けて10月開催となった。大会史上初めて雨が降った。比較的アップが少ないテレインであるが、県央テレインよろしくグリーンであり、草刈りによる道の確保、会場からスタート・ゴールまでの距離、またテレイン中央のゴルフ場を巻くようにコースを組むなどの制約もあり、Nクラスの参加者などには苦労であったと思われる。運営その他に関しては、無難に成功を収めた。N・G・市民クラスにおいて恐らく初めて印刷のコーティング地図が使用された大会であり、地域への普及活動を行う筑波大学の特色が出ている。

**第17回大会 1994年10月30日 「棚倉街道」 主管学年18期(92年入学) [#yb45d690]

 第12回大会「熊ノ木」以来のリメイクマップでの大会。新規テレインの枯渇から各大学大会でもリメイクが多く見られるようになっている。茨城県内最高級のスーパーAは、やはり参加者からの評価を得られた。第11回大会同様に、テレイン南西端の中里小学校を会場に、日立駅からバス輸送が展開された。当日は順調であったこの大会も、駐車場確保など事前の苦労も多かったようだ。
 この年の3月に寄金先生が筑波大学を定年退官なさったため、OB会の発意で先生に感謝の意を込めて、男女エリートの優勝者に「寄金杯」と名付けたカップを送ることが実現した。

**第18回大会 1995年10月29日 「吾国山」 主管学年19期(93年入学) [#xc9e42b0]

第9回大会「稲田三山」を含み西側に範囲を移動したテレインで行われた。会場は「稲田三山」と同じく稲田小学校であった。植生は「稲田三山」に比して良く、コースセットでの工夫もあって新鮮味があり、「稲田三山」を知る愛好会OB・OG参加者を驚かせた。大会当日は事前申し込みのほか、多くのN・Gクラスの参加者でにぎわい、当日参加者は初めて1000名を超えた。 

**第19回大会 1996年10月20日 「花貫渓谷」 主管学年20期(94年入学) [#h5cf0683]

 前回大会の参加者アンケートに多かった「遠くとも良いテレイン」を要望する意見を反映して、この地が選定された。会場は当時茨城県OL協会があった高萩大心苑で、大心苑からテレインまでバス輸送が行われた。大会当日が衆院選挙の投票日と重なってしまい、テレイン本部として借りる予定だった公民館が投票のため使えなくなった。携帯電話も通話圏外で、会場本部とテレイン本部との間を公衆電話への電話と、定時連絡に係員を割く形でカバーしていたという。
 「入四間」系統とは異なる趣の県北テレインであり、茨城県下では「入四間」と並ぶ名テレインであろう。しかしながら、ほとんどのコースで予想ウィニングタイムを大幅に超えることとなり、参加者にはコースセットがやや不評であったようだ。地図上でのコースプランと実際の現地での走り易さに乖離があったらしく、コースセットのあり方を反省課題としている。

**第20回大会 1997年10月26日 「下野軌道」 主管学年21期(95年入学) [#g9b015e1]

 筑波大大会20回目を記念して良質なテレインを、ということで万全を期して「熊ノ木」リメイクに踏み切った。例年より早く渉外を始めたこともあって当初は順調に進んでいたが、矢板高校を会場として借りる交渉に時間を要した。最後には筑波大学長印を要求され、決死の思いで大学本部棟へ学長印の申請に行ったという。
 このように日本最高級のテレインで、万全の準備で臨み、成功裏に終わった大会の陰では、大会当日が図書館情報大学の学園祭と重なったため、図情大の運営応援を得られず、90名でのぎりぎりの運営となった。また、運営者を震撼させたのは蜂である。何人もの参加者に被害が出て、病院送りも出るほどだった。大会本部は、蜂のいる付近のコントロールを閉鎖して、主要コースのほとんどを不成立にするまでの決心をしたというが、現地役員の行動力のおかげでそれを免れたという。
なお、この大会では、主要な大学・クラブ大会のなかで初めて電子パンチシステムe-cardが導入された。


トップ   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS