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 *第1回大会 1978年11月3日 「吉瀬」 [#s6211cc7]
 *筑波大大会第1-5回 [#jba56b2e]
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 **第1回大会 1978年11月3日 「吉瀬」 [#s6211cc7]
 
  本格的印刷マップで対外的に大会を開くようになったのは、地図調査も上達し、独り立ちできる者も増えたもので、前年の謄写版マップではあきらめていた通行可能度も入った地図が出来た。複数の会員で作図したので、特にマッパーという言い方はなかったそうだが、こうして記念すべき初代「吉瀬」が誕生した。
  大会記念誌には「村民大会」くらいの規模と書かれていたが、保延氏のコメントによると、『それほど規模は小さくなかった。「県民大会」くらい』だそうだ。広報の段階では、不安があったからPRを県内レベルに留めたが、大会当日は「全国広報すりゃあ良かったなあ」と思ったくらいに、完成度の高い大会だった(保延氏)。公認大会常連者や実力者も何人か参加していた。特に水戸OLCからの参加が多く、お礼にこの後の水戸OLCの大会に何人か参加した。
 
 *第2回大会 1980年1月20日 「柴崎」 [#t6fcbf4a]
 **第2回大会 1980年1月20日 「柴崎」 [#t6fcbf4a]
 
  第1回大会を終えた愛好会員のなかから「また大会を開こう」という気運が盛り上がったのはいうまでもない。今回は積極的な広報活動を行い、大学クラブからもオリエンティアが集まった。当時の愛好会には女子が多く、大会当日も受付やスタート、サービスなど参加者との接点に重点的に女子が配置され「サービスの筑波」を印象づけた。毎年参加者にふるまわれる甘酒もこの大会から登場した。
 
 *第3回大会 1981年1月18日 「恋瀬川」 主管学年4期(78年入学) [#n864926a]
 **第3回大会 1981年1月18日 「恋瀬川」 主管学年4期(78年入学) [#n864926a]
 
  初めて筑波から離れたところで開かれた大会である。そのために、会場手配や大会後援の取り付けなど渉外には苦労した。起伏のあるテレインでの地図調査も初めてで暗中模索であった。調査は夏にテレイン内のキャンプ場に3〜4泊して行われたが、くもの巣、蛇、蚊に悩まされ、大変な苦労だったそうだ。また、当時は自動車を持っている会員は少なく、テレインまでの20kmを自転車で往復した者が結構いたそうである。この大会から大学クラブのインカレセレクションに使用されるようになった。
 
 *第4回大会 1981年12月20日 「木葉下」 主管学年5期(79年入学) [#l7db86c6]
 **第4回大会 1981年12月20日 「木葉下」 主管学年5期(79年入学) [#l7db86c6]
 
 この大会から現在のような地図調査日程(3月基礎調査,4月一次調査,5月二次調査)で行われるようになり、宿を取って行うようになった。それでも二次調査はまだ秋口に行なわれたらしく、マッパーは大変な忙しさだった。このときから12月に大会を行うようになり、茨城県教育委員会、開催地関係教育委員会、茨城県OL委員会(現茨城県OL協会)の後援名義を使用するようになった。
  実は、「木葉下」を見つけるまで、第10回大会のテレイン「かたくりの里」での開催を考えていたそうだが、県立コロニーの土地利用に関する承諾が得られず断念した経緯があったという。
 
 **第5回大会 1982年12月19日 「春園」 主管学年6期(80年入学) [#o6ca9ff0]
 
 *第5回大会 1982年12月19日 「春園」 主管学年6期(80年入学) [#o6ca9ff0]
 
  第4回、第5回大会あたりから現在の筑波大大会の形ができあがってきた。大会自体も大学クラブのインカレセレクションに指定されるなど適正なコースセットと正確な大会運営が要求されるようになってきた。特にコースセットについては、難易度の高いコースセットを目指すあまり、ヤブ通しなど競技の公平性を欠くことがしばしばあるが、この大会では難易度を犠牲にして不公平の恐れを回避したものと高い評価を受けた。翌年の学園祭で出した模擬店はずばり「秘密の“春園”」であった。勘違いした男性客がいたとか、いなかったとか…。
 
 

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