− 長野オリンピック冬季競技大会組織委員会後援  
  国際オリエンテーリング連盟ランクA指定国際大会 −   
真田町・菅平高原  
国際スキーオリエンテーリング大会を振り返る 
長野県オリエンテーリング協会   理事長 元木悟  
(真田町・菅平高原国際SKI−O大会 SKI−O委員長) 
 
 
 オリエンテーリング(OL)は北欧発祥のスポーツで、国際的には世界選手権、ワールドカップ(W杯)、世界ジュニア世界選手権、ユニバーシアード、ワールドマスターズなど幅広く行われています。本場ヨーロッパではクロスカントリースキーで、地図と方位磁石(コンパス)を使い、森林内のポイントをいかに早く回ってこれるかを競うスキーOL(SKI−O)も盛んで、国際OL連盟(IOF)は2002(平成14)年のソルトレークシティ冬季オリンピックからの採用を目指して、積極的な活動を展開しています。
 
 長野冬季オリンピック直前の1998(平成10)年1月28日から31日まで、小県郡真田町の菅平高原を会場に、長野オリンピック文化・芸術祭として「真田町・菅平高原国際文化交流フェスティバル」が行われ、それに併せて「真田町・菅平高原国際SKI−O大会」が開催されました。SKI−Oは日本ではまだ始まったばかりのスポーツです。アジアで国際的なSKI−O大会が開かれたのはもちろん初めてのことで、大会実行委員会も手探りの状態での開催でしたが、地元とOL関係者の相互協力により、大会は成功裡に終わりました。今回の会場であった、菅平高原の牧場などを使ったコースは日本よりむしろヨーロッパの地形に似ており、国際大会としても最高級のコースで、国内外から競技面、運営面で高く評価されています。
 
 世界で最初のOL大会はスキーを使って(SKI−Oにより)行われました。1897(明治30)年のノルウェー・オスロでのことでした。日本では、それから74年後の1971(昭和46)年に最初のSKI−O大会が山口県羅漢山スキー場で開催されました。1977(昭和52)年には日本OL協会(JOA)の前身である日本OL委員会(JOLC)がSKI−O指導者講習会を開催し、同時に各地でSKI−O大会が開かれ始めました。長野県OL協会の前身である長野県OL委員会でも、菅平高原を始め、白樺高原、戸隠高原、乗鞍高原、飯山市、大町市、美麻村等で計11回にわたり、「長野県SKI−O大会」を開催してきました。   
 その後、数年にわたり、国内では細々とスキーハイキングや変則的な大会が開催されていましたが、日本特有の気象条件や指導者不足、諸規定の未整備、費用の面等から本格的な大会は開催されませんでした。
 
 国内で、「国際SKI−O大会」開催が最初に話題に上ったのは、1994(平成6)年7月の東京都稲城市の読売ランドで行われた関東ブロックOL会議でした。山梨県OL協会一木副会長(都留文科大学教授)より「長野オリンピックに併せて、SKI−O大会等のイベントを開催したらどうか」との提案があり、協議した結果、「長野オリンピックに併せて、SKI−O大会等のイベントを開催」する方向で可決しました。大会開催の事前準備が、東京都OL協会伊藤会長に委任され、1994年12月に長野県OL協会の元木理事長に引き継がれました。その後、1995(平成7)年2月からは、菅平高原オリエンテーリングクラブの宮澤裕二氏とともに中心になり、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)や地元等との交渉にあたりました。
 
 1995年3月にはIOF派遣者としてSKI−Oの元スウェーデンナショナルチーム選手の Mr. Patorick Baufuer が、1996(平成8)年10月19〜22日にはIOF会長 Ms. Sue Harvey 、当時の事務局長 Mr. Lennart Levin、SKI−O委員会委員長 Mr.Veli-Markku Korteniemiの3氏が、1997(平成9)年1月にはIOFの国際コントローラ Mr.Kristian Liljestrom が来日し、本大会の成功に向け、詳細が打ち合わされました。   
 1996年2月には「SKI−O世界選手権」(ノルウェー・リレハンメル)へ本大会の視察団が派遣され、世界選手権や他のSKI−Oイベントの視察とIOF訪問を行いました。その後、IOF側、菅平側、双方の問題点を処理した後、1997年1月10日のスウェーデン・オーシャグランクリットで本大会の調印式が行われました。   
 一方で、NAOCや地元との交渉は難航していました。本大会は当初、長野オリンピックの文化プログラムに申請しましたが、スポーツを文化として扱えないというNAOCの方針から、国際交流や環境問題をテーマにした「真田町・菅平高原文化交流フェスティバル」を文化プログラムとして実施し、その一環として森林と触れ合う環境に優しいスポーツを開き、環境問題を考えてもらうとの位置付けで、開催することになりました。1996年6月にNAOCから「真田町・菅平高原国際SKI−O大会」の後援が出ると同時に、実行委員会設立準備会議が開かれ、以降、準備委員会が機能しました。1996年8月には念願の「長野オリンピック文化・芸術祭 真田町菅平高原国際文化交流フェスティバル」がNAOCで正式決定されました。OL導入から30年近い歴史を持つ菅平高原で国内最大級の国際OL大会の開催が決まりました。
   
 私たちがこの時期に国際大会開催を決めたのは、長野オリンピックを通じて世界にSKI−Oをアピールすることが目的でした。オリンピック開催地から外れている真田町も菅平高原の振興につながると全面協力して下さいました。   
 SKI−Oは、1949年に冬季オリンピック種目として国際オリンピック委員会(IOC)によって承認されています。IOFでは1988年のカナダ・カルガリー大会以来、1992年のフランス・アルベールビル大会、1994年のノルウェー・リレハンメル大会と、SKI−Oの実施の可能性を追求してきていますが、残念ながらその達成は成りませんでした。現在、IOFは、SKI−Oが将来の冬季オリンピックの正式種目となることを目指して、精力的な活動を展開しています。
 
 本大会には日本の他に、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリア大陸から10カ国約200人の参加がありました。男女とも世界ランキング20位までの上位選手を中心とする選手権クラスから初心者向けクラスまで男女10クラスに分かれ、ショートディスタンスとダウンヒルスプリントの個人種目で争われたほか、リレーも行われました。本大会は、冬季オリンピック正式種目入りを意識した運営で、見せる競技、楽しむ競技としてのSKI−Oをアピールしました。特にわずか10分程度で勝敗が決まるダウンヒルスプリントは、本大会が世界で初めて試みた種目ですが、見せるという点で優れ、将来の種目として注目されています。   
 大会期間中は海外選手と参加者、地元との国際交流会や自然をテーマとしたイベントが行われ、町をあげておおいに盛り上がりました。本大会にはSKI−O経験者はもちろん、初心者も気軽に参加できたことから、クロスカントリーの上級者から、当日初めて滑る人まで様々の人がSKI−Oを体験でき、同時に世界の一流選手の滑りを観戦することができました。
 
 私たちはこの大会を契機に日本にSKI−Oが根付いてくれればと願っています。国内選手は将来の冬季オリンピック出場を夢見てトレーニングに取り組んでいます。また、本大会を通じて、OL界では世界各国で「Sugadaira」の文字が流れました。知名度があがった菅平高原では、今後も引き続き国際大会の誘致が計画されていると聞きます。菅平高原における次の国際OL大会の取り組みも既に始まっています。
 
  

(1998年6月23日脱稿 長野市松代町)