前回の京大大会が関が原で行われ、今回また歴史的に見て大きな合戦が行われた天王山で京大大会が行われるというのは、偶然とはいえ歴史好きにはなんとなくうれしい感じがします。そういえば東大大会は「太閤一夜城」でしたね。日本のオリエンテーリングのテレインにはなぜか歴史的名所が多いようです。これはオリエンテーリング向きな小高い丘などは砦などがよく築かれる→合戦地になりやすい。などという仮説もできますが…
話がそれました。天王山についてです。天王山とは今後を占う大きなヤマ場、の意味で使われますが、それが420年前に行われた山崎の合戦によるものだといわれています。ここではテレインである天王山がこの戦いにおいてどのような意味を持っていたのか、そしてなぜ現在のような使われ方になったのかをお話したいと思います。
1582年(天正10年)6月2日、室町幕府を滅ぼし、天下をほぼ手中に収めていた織田信長が家臣明智光秀によって京都本能寺で討たれた。(本能寺の変)
この報は次の日、遠く中国地方で毛利家の最前線、備中高松城攻めをしていた羽柴秀吉の所にも届いた。秀吉は主君信長が討たれたことを秘し、すぐさま毛利と和睦。そして主君の仇を討つため、一路京都を目指す。秀吉軍の動きは非常に早かった。ほとんど休むまもなく居城の姫路城に帰ってきたのである(6月8日)。この間機内の諸将へ檄文を送り、光秀打倒を呼びかける。これほどまでの秀吉の動きを光秀は予期していなかった。秀吉は11日には尼崎城へつき、12日夜には摂津富田に陣をおく。
光秀は秀吉が一気に京へ攻め上ると聞き、ようやく合戦の準備をはじめる。しかし、光秀が頼みとしていた細川藤孝、忠興親子は静観、筒井順慶は秀吉に内通して兵を出さなかった。これが光秀にとっての最大の誤算であった。
光秀は兵が少ない分、地形をうまく利用して優位に戦おうと考えていた。それが山崎の天王山のあたりだったのである。このあたりは木津川、宇治川、桂川の合流地点であり、そのすぐ東には天王山を含む山があり、川と山に囲まれ、大軍の兵が通るには非常に狭い。しかし秀吉軍が京へ上るにはそこを通らなければならないのである。光秀はそこを叩こうとした。秀吉も畿内に入ってきたころには山崎付近が決戦場になると考えていたと思われる。
そしてついに両軍が激突する。勝った者が信長の後継者となれるのである。
6月12日秀吉方の武将、高山重友隊が山崎の町を、中川清秀隊が天王山をそれぞれ占拠。この2将は山崎に近い高槻城主、茨木城主だったのでこのあたりの土地についてはよく知っていた。
13日この天王山の地を奪おうと光秀隊が攻撃を仕掛けたのが開戦の合図となります。
しかし光秀のこの攻撃は裏目に出た。やはり低地から高地への攻撃は不利なのである。逆に天王山の中川、黒田隊などが打って出て、光秀の重臣斎藤利三を討ち取る。利三は光秀が最も便りとする重臣だったのでこの斎藤隊の敗走は大きかった。全軍が総崩れとなり、光秀は勝竜寺城へ逃げ帰る。しかしこの勝竜寺城でも支えきれず、坂本城目指して落ちていくこととなった。
光秀が京都山科の小栗栖の竹薮にさしかかったとき、光秀は潜んでいた農民に脇腹を刺され、家臣溝尾勝兵衛が駆け寄ったときにはすでに虫の息であったという。そして勝兵衛の介錯により自刃したといわれている。享年55。
山崎の合戦に勝利した秀吉は事実上信長の後継者となりその後天下を統一するのである。
山崎の合戦は次の天下の覇者を決める上でとても重要な戦いだったのである。
天王山城跡
秀吉が山崎の合戦後に作らせた一時的な城。残念ながら今では当時の面影はほとんど残っていないように思われます。
天王山ハイキングコース
「秀吉の道」と名づけ、秀吉の天下人への道のりを説明した案内板が立っています。
大山崎町歴史資料館(阪急大山崎駅から北東へ徒歩約10分)
展示室は時代別に「古代」「中世」「待庵」「山崎の合戦」「近世」とに分かれ、 最新の映像装置を駆使したビデオや模型イラストなどを用いて、 楽しみながら歴史を学習するように工夫しています。
宝積寺(JR山崎駅から徒歩約10分、阪急大山崎駅から徒歩約15分)
聖武天皇の勅願を得て、僧行基が開いたといわれています。参道沿いに立つ三重塔は秀吉が一夜にして築いたという言い伝えがあります。
離宮八幡宮
鎌倉時代、荏胡麻油の生産をしていた神人たちが油座を形成し、八幡宮の権威の下関所の通行料免除や津の使用料免除などさまざまな特別な権利を得、中世をとおして大山崎の油は全国にその名を知られることになりました。
17烈士の墓
江戸幕末、禁門の変(蛤御門の変)に敗れた真木和泉ら17烈士がこの地で自刃したといわれています。お墓は天王山山頂より少し南に位置するところにあります。